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近代ロシア音楽


      ★ 近代ロシア音楽について
☆スクリャービン ☆ スクリャービン・Midi音楽集
☆ラフマニノフ ☆ ラフマニノフ・Midi音楽集
☆プロコフィエフ ☆ プロコフィエフ・Midi音楽集

★近代ロシア音楽

ソ連で共産主義政権が樹立されてから、その安定に伴って、音楽の様相と作曲家の生活
は、従来のものとも西欧の場合とも違って、大きく変化した。 革命当時から新政権に
なるまでに、国外に亡命した作曲家もいた反面で、また積極的に革命に協力し、革命歌
をはじめとする作品を作曲したりした人達もいた。 そしてこのような革命の流行は、
ロシア民謡に新しい感覚のものを加える事にもなり、また革命を体験した作曲家に音楽
的な素材を提供することにもなったのである。 政権が安定してくると、音楽運動も文
化政策の一つとして、国家的に推進されるようになった。 全国的に音楽院や管弦楽団
や演奏団体をもうけ、主要都市には歌劇場を再開させて、国家的な事業として楽譜その
他の音楽書を出版し、レコードも製作するようになった。 音楽教育も、全国的な規模
で行われるようになった。 コンクールを開いて、優れた音楽家の卵を見つけ出し、政
府の援助で育て上げるなどした為に、立派な演奏家が続々と現れてきたのである。 ま
た、素人の合唱団を始めとする演奏団体の活動も奨励され、その一般的な水準も向上し
た。 さらに、連邦共和国をつくる数多くの民族の民謡の研究、民族的な色彩の濃い音
楽の誕生も促進された。

1932年4月に、ソ連のこれまでのプロタリア音楽協会は、ソ連政府当局で決議された方
針に従って、ソ連作曲家同盟を結成した。 作曲家は、この同盟に加入すると、作曲の
為の色々な便宜が与えられ、作品が完成した際には演奏会などで発表する機会にも恵ま
れる。 しかしその反面で、作曲家は、常にその保証に応じた活動をしなければならな
いし、極端に自分で勝手な方向を取る事も許されない。 作品の傾向や技巧、あるいは
音楽家の仕事の内容は、すべて当局の内部でいつも検討されている。 そして定められ
た方向から著しく外れていると断定されたときには、遠慮なく批判され、自己批判を要
求される。 つまり、作曲家同盟の結成に伴って、同盟と共産党によって、ソ連の進む
べき方向が打ち出されたのである。 この同盟の結成のときには、他の芸術の分野と同
じように、音楽でも革命初期の現代主義的・感覚主義的・形式主義的な傾向は否定され
社会主義リアリズムの線に沿った指導方針が立てられた。 この方針と言うのは、形式
の点で民族主義的、内容の点で社会主義的で、古典的な伝統を正当に受継いで発展した
ものであり、高い技術によって簡潔で明朗で真実な表現に到達すべきというのである。
作曲家達がこの方針に従って創作を再開したのはいうまでもない。 多くの作曲家達は
亡命も試み、ラフマニノフ・ストラヴィンスキーなどはアメリカに永住したが、プロコ
フィエフのように、ソ連に復帰した変り種の作曲家もいた。


 A.Scriabin (1872〜1915)
(アレクサンダー・スクリャービン)

スクリャービンは、西欧の神秘主義や印象主義、あるいは象徴主義などに影響を受けて
独自の音の組み合わせを考え出し、それに基づく作品を数多く残した。 そうした傾向
は、1900年代に入ると徐々に現れてくる。 それ以前には、ピアニストとして活躍しな
がら、ショパン風な前奏曲やマズルカ、練習曲などを書き、またソナタ、交響曲なども
作った。しかし間もなくそういうロマン主義に満足する事ができなくなったのである。

そうした新しい傾向は、「神聖な詩」や「法悦の詩」といった交響曲などにも現われて
いるが、第5交響曲に相当する「プロメテ−」と題された「火の詩」で最も明らかにな
った。 この曲は、「神秘的和音」という特殊な和音を旋律的にも和声的にも用いて、
特殊な効果を出した。 その上、スクリャービンは、形式を著しく拡大し、独創的な管
弦楽の編成を考え出し、オルガンやピアノやチェレスタや歌声も加えたばかりでなく、
可能ならば「色彩ピアノ」も置いて、光の効果を出そうとした。 さらにまた、調性を
否定する方向を見せたり、冒険的な和音を用いたりもしている。 こういう神秘主義は
当時のスクリャービンのピアノソナタにも見られる。 それは多くは単一楽章でできて
いて、神秘的で繊細で強烈で、時には病的にさえも見えるが、創意には富んでいる。

★ スクリャービン・Midi音楽集

 ソナタ第1番
 (1楽章)
 (2楽章)
(3・4楽章)

    S.Rachmaninow (1873〜1943)
(セルゲイ・ラフマニノフ)

ラフマニノフは、優れたピアニストとして各国に演奏旅行をしていたこともあって、作
品もロシア的なものに固まらない作風を見せている。 ソヴィエト政権以後は、パリか
らアメリカへと亡命生活を送って、ますます西欧的な作品を書くことになった。

3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、ピアノの管弦楽の為の「パガニーニの主題による
ラプソディ」をはじめとして、合唱曲、歌曲、ピアノ曲などは、哀愁味のある抒情性と
華やかな効果を見せ、広い愛好社層を持っている。

1909年にアメリカへの最初の演奏旅行を行ったラフマニノフは、以後はこれまでにもま
して、ピアニスト・指揮者として多忙を極め、この時期の作品は「夏休みの作曲家」と
言われるように、ほとんどが夏の休暇を利用して書かれている。 音の絵のタイトルを
持つこの練習曲集も、そうした多忙な演奏活動の中で1911年にわずか2週間足らずの間
に集中的に作曲された作品で、曲は1914年に出版された。

★ ラフマニノフ・Midi音楽集

練習曲「音の絵」op.33より
   (第6番)
   (第8番)

 S.Prokoview (1891〜1953)
(セルゲイ・プロコフィエフ)

プロコフィエフは、13歳でぺテルブルグ音楽院に入学するが、すでにそれ以前からピア
ノと作曲に著しい才能を発揮していた。 10年間の音楽院の在学中に、リムスキー・コ
ルサコフ、リャ−ドフその他から影響を受け、その最後の年とその翌年にパリやロンド
ンに旅行し、ストラヴィンスキーやラヴェルその他の作品に接して、強い刺激を与えら
れた。 しかし帰国してからは政権も不安定であり、落ち着かないでいた。 それでも
その間数多くの曲(ピアノ曲・バレエ・オペラ・交響曲)を書き上げている。 これら
においては、原始主義・印象主義・表現主義などの影響も散見されるが、形式的には堅
実で様式的には洗練さを見せ、すでにプロコフィエフの傑出した才能を立証している。

プロコフィエフは1918年に革命を避けて亡命し、日本を経由してアメリカに渡り1920年
から次第にパリに活動の本拠を移すようになる。 しかし、度重なるソ連への演奏旅行
をきっかけとして、ついに1934年にソ連に正式に移り、それ以降はソ連で創作活動を続
けた。 この亡命時代のプロコフィエフは、新古典主義に傾いた作品を書いたが、ヨー
ロッパに進出してからは、これまで見せていた抒情性をかなりおさえ、パリの当時のモ
ダニズムを積極的にとりいれた音楽を発表した。 しかし、10年以上にも及ぶパリの活
動は、必ずしもプロコフィエフに、パリへの永住を終局的に決意させるだけの大きな成
果はもたらさなかった。 ソ連に復帰したプロコフィエフは、ソ連の求める芸術方向に
注目しながら、まず映画の為の音楽とそれによる組曲「キージェ中尉」を発表した。 
そして次第にソ連の路線に沿った作品が作られていった。 こうして、バレエ「ロミオ
とジュリエット」、「ペーターと狼」など、創作力がとどまるところを知らないくらい
に、数多くの作品があらわれた。 映画や舞台の作品では、抒情性を再び取り戻し、と
きには壮大な効果を狙いながらも、かつてのモダニズムから民族的な方向に転じた様式
があり、ソナタ・室内楽曲・それに第5交響曲ではそうした傾向の他に、形式の整備も
認められる。

★ プロコフィエフ・Midi音楽集

 トッカータ
   練習曲
(op.2−1)
(op.2−2)
 ソナタ第2番
 (1楽章)
 (2楽章)
 (4楽章)

  (バロック)   (古典派)   (ロマン派) (フランス印象派)

  


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