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ロマン派の音楽


       ★ ロマン派の音楽について
       ★ 初期ロマン主義の音楽
☆シューベルト ☆ シューベルト・Midi音楽集
        ★ 中期ロマン派の音楽
☆メンデルスゾーン ☆ メンデルスゾーン・Midi音楽集
☆シューマン ☆ シューマン・Midi音楽集
☆ショパン ☆ ショパン・Midi音楽集
        ★ 新ロマン主義の音楽
☆リスト ☆ リスト・Midi音楽集
★ 反ヴァーグナー派の音楽 (ブラームス派・新クラシック派)
☆ブラームス ☆ ブラームス・Midi音楽集
          ★ 民族主義音楽
☆グリーグ ☆ グリーグ・Midi音楽集
☆ チャイコフスキー ☆ チャイコフスキーMidi音楽集

★ロマン派の音楽について

ヴェルナーはその「音楽史」において、古典主義音楽の理想は、対照性の原理に現れて
いるとしているがここで対照性の原理というのは、古典主義音楽の中心的技法である主
題の設定ととの操作において、絶えず対照的な効果が追求されていると言う事で、これ
は単にその面だけではなく、音色や和声やリズムという点においても利用されていると
いうのである。 確かに古典主義音楽へのわれわれの興味は、主題操作による展開技法
の面白さの中に存在しているが、それはあくまでも「安定−不安定−安定」もしくは、
「快−不快−快」といった人間の標準的・形式的美意識を前提として始めて呼びおこされ
るものであって、この形式性なしには、その展開技法の面白さもそんざいしないと言っ
てさしつかえないであろう。

従って、古典主義音楽における作曲家の創作的イメージは、常に一定の枠内において醸
成され実現されるのであって、主題の設定とそれによって生じる楽想というのも、その
あと引き続いて行われれる主題操作による展開技法を予想した上でつくられるものであ
るから、あとの展開に役立たないような主題旋律は全く意味のない物となってしまう。
そして、主題旋律を素材として展開すると言っても、具体的・直接的には、主題を構成
する動機的分解による利用という事であるから、主題の設定それ自体の中には、必然的
にこの動機部分をより合理的に、より有機的に結合しておかなければならないという事
になる。 創作における楽想構成の際に、これを極めて論理的に整理し、かつ音楽的に
も十分検討されたものとして作品を作っていったのがベートーヴェンであり、ハイドン
においてはそれはまだ不充分であった。 そう言う意味から考えれば、モーツアルトの
作曲態度は音楽家としての本能性が強く、その点だけから言えば、ロマン主義作曲家の
姿勢に近いものを感じさせる。

中期から後期にかけてのベートーヴェンに、ロマン主義的な傾向が見られると言うこと
について、しばしば形式からの脱却という点からそれが説明されているが、実際はそう
いう表面的なことではなく、古典主義的な対照性の音楽の原理を使用しながらも、なお
かつ、その中に音楽的な統一性と人間性、言い換えれば作曲家ベートーヴェンの個性を
にじませようとした態度のうちにそれが認められるからなのである。

これに対して、ロマン主義の作曲家は、始めからこの主題の対照性原理というものには
無関心で、主題もちくは楽想を、もっと直接的に表現しようとする態度でそれを考えて
いたのである。 主題もしくは楽想によって自己の心情を表現することができれば、主
題を発展させる必要もなく、曲の形式的統一も必要なかったのである。 そこに小品的
器楽曲の生まれてくる必然性があったとも考えることができる。 形式と言う枠の中に
あっては、その形式からくる美意識の底辺が満足されるという安定感があるが、自己表
出に重点を置こうとするロマン派の作曲家にとって、その表現に忠実であろうとする事
によって形式性は必要でなくなり、いきおい、形式性による基礎的安定感に依存する事
が不可能になってしまい、そこに他のなんらかの手段が必要となってくるのである。 
そこに、旋律語法・和声・リズム・音色といったあらゆる音楽的要素を利用すると言う
事が考えられ、これらを色々な形で新しく使用すると言う事から、ロマン主義の音楽が
具体化されていくのである。

このような自己表出というロマン主義作曲家の基本的な創作行為においては、何よりも
まず、自己の感情生活が創作の出発点ということになるから、常に彼らの心を動かす何
らかの誘因を必要としたのである。 そこに文学と結びついて要因があり、それが標題
音楽の発生という必然性に結びついて行くのである。 古典主義音楽が形式を中心とし
てそこに客観的な美を求めたのに対して、ロマン主義音楽では、何よりも自己表出とい
う主観性を中心とし、事故の感情を美の形成への唯一の手がかりとしていたのである。


★ 初期ロマン主義の音楽

初期ロマン主義の音楽は、ベートーヴェンの生存時代と並行するもので、ウエーバーと
シューベルトをその主要な代表者とする。 ベートーヴェンがクラシック音楽の最後の
代表者として作曲を続けていたころ、一方では新しい様式の音楽が育成されつつあった
のであり、後期のクラシック音楽と初期のロマン主義音楽とは時代的に重複しているわ
けである。

この初期ロマン主義の音楽は、クラシックの土壌に成長したロマン派的な花のようなも
ので、ロマン派主義的な面を持つ一方、明らかにクラシックの伝統を残していた。 そ
の旋律の形は、原則的にはなおクラシックなものだったし、作曲家達も、クラシック音
楽の形式感や構成原理からまだ抜け出られないでいたのである。

  F.Schubert (1797〜1828)
(フランツ・シューベルト)

シューベルトは、ヴィーン郊外に、小学校長を父として生まれ、王室礼拝堂の少年歌手
の試験に合格した事から、コンヴィクトと呼ばれる学校に収容され、ここでの生活の中
で音楽教育を受ける事となった。 ここにはベートーヴェンも師事した事のあるサリエ
リもいて、彼の作曲の基礎的な知識はここで教えられている。 1813年には変声期の為
にここを離れ、父の学校の教員となり、そのかたわら作曲もしていたが、14年には「糸
を紡ぐグレートヘン」・15年には「野バラ」・「魔王」などを作って、歌曲作曲家とし
てのスタートを切る。 作曲に没頭すると何もかも忘れてしまうといった彼の性格では
雑事の多い教員の仕事のつとまるわけもなく、これは数年で辞めてしまい、16年には友
人のショーバー宅に寄寓して、作曲活動に専念することになる。 そして、18年ごろに
なると、彼の器楽作品も徐々に知られるようになり、名実ともに作曲家としての生活を
始める事となった。 その後の彼の生活は順調に進み、前記ショーバーをはじめ、コン
ヴィクト時代からの友人であるシュパウン・歌手のフォーグルなどの友情に囲まれなが
ら、彼一流の即興性に溢れた作品を生み出して行く。 1822年には交響曲「未完成」、
翌23年には「美しい水車小屋の娘」、25年には「アヴェ・マリア」、26年には弦楽四重
奏曲「死と乙女」、そして死の28年には「冬の旅」というように、名作を相次いで発表
していった。 また彼には前述の諸作品の他「即興曲」や「楽響の時」と題されるピア
の小品があるが、小曲的にまとめられた情緒豊かな器楽曲という形式は、ロマン主義作
曲家に愛用された音楽形式で、その点でのシューベルトによるこれらの作曲の意味は、
決して小さなものではない。

★ シューベルト・Midi音楽集

 アヴェマリア
  菩提樹
  マーチ
 セレナーデ
   楽興の時
  2番
  3番
  4番
  5番
  6番
即興曲op.90より
  第2番
  第4番

★ 中期ロマン派の音楽

19世紀の初めには、ヴェーバーやシューベルトなどの力で、音楽ははっきりとロマン
的な方向を歩み始め、それまでのクラシック音楽とは別の独自の道を進むようになった
がそれに続く世代では、ロマン主義の音楽はますます新しい方向をとるようになった。
これらの、メンデルスゾーン・シューマン・ショパンなどという作曲家達は、初めから
ロマン主義の空気を胸一杯に吸い込んで成長しただけに、もはやクラシック音楽には満
足できないで、完全にロマン主義的な音楽を書いたわけである。 それは、個性的な情
緒の表出を一段と重んじ、自然とか人生とかいうような音楽以外のものから好んで刺激
を受け、小品の世界を好み、半音階的な和音を多く用い、自由な転調を大胆に行ってい
る。 これは、フランスで発生しドイツにも波及した1848年の革命につながる自由思想
の興隆や文学や哲学などで表明された個性の尊重とも密接な関係を持っていた。
このような新しいロマン主義の音楽を、中期ロマン派の音楽と呼んでいる。

 F.Mendelssohn.B (1809〜1847)
(フェリックス.メンデルスゾーン.バルトロディ)

中期ロマン派の音楽の最初の代表者は、メンデルスゾーンである。 メンデルスゾーン
は、ハンブルグで銀行家の息子として生まれ、ベルリンで成長した。 生まれながらに
音楽的な天分に恵まれていた上に、極めて贅沢な音楽教育を受けたので、早くから才能
を発達させ、9歳の時にはピアノの公開演奏をし、11歳の頃から作曲を始めて17歳の時
にはシェークスピアの「真夏の夜の夢」の為の有名な序曲を書いた。 その後は、各地
で演奏したり作曲したりし、1835年にはライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指
揮者になって、この管弦楽団の演奏水準を著しく向上させたが、またイギリスその他外
国へもしばしば旅行したし、1842年にはライプツィヒに音楽学校を設立して著名な音楽
家をその教授陣に招いて、音楽教育面にも多大な功績を残した。

メンデルスゾーンはロマン的な作曲家ではあったが、その反面でまたかなり保守的でも
あった。 その形式は、クラシック音楽に似て均斉を保ち、整然としているし、旋律も
クラシックのそれと同じく、8小節単位になっていることが多い。 更に、和声は三和音
的であり、構成はソナタの原理を重んじている。 その精神的基盤にも、クラシック的
なものが見られる。 メンデルスゾーンがこのように保守的になったのは、裕福で生活
の苦労を味わわなかった事や、その音楽教育がクラシックの基礎の上に行われていた事
によるが、また他方では、当時の尚古の精神の影響を受けたからである。 言換えると
音楽の歴史的な研究が盛んになり、以前の優れた作曲家を再認識する傾向が強まって来
たのである。 メンデルスゾーンは、自分でもバッハやヘンデルやモーツアルトやベー
トーヴェンその他の先輩大作曲家を研究し、多くを学び取った。 しかし、その感覚は
生来ロマン派的であり、その為にクラシック的な交響曲や序曲を書いても新しい色彩を
見せ、協奏曲ではロマン的な自由性をおき、どの曲においても夢と詩情と妖精的な世界
を与えたのである。 しかも、メンデルスゾーンの音楽には、その他にも重要な特徴が
ある。 その一つは、形式が完成されている反面で深刻さが不足していることである。
これは作曲者の性格そのものにもよるだろうが、また生活環境があまりにも幸福すぎて
世の暗い反面や生活の悲劇を知らなかった結果でもある。 このようにメンデルスゾー
ンの作品には、晴朗とした陽光が輝いているが、それに対比する陰影に乏しく、心を和
やかにする温かさにあふれてはいるが、強烈な情熱も深い悲愴味にも欠けているのであ
る。 しかし、その洗練された完備した形式は、そういう弱点を補うだけのものを持っ
ている。

メンデルスゾーンは、確かにベートーヴェンに匹敵するほどの大家ではなかったが、十
分に個性に富む作曲家ではあった。 そして、このメンデルスゾーンという存在があっ
たからこそ、その後のロマン主義の音楽は、その影響を大いに受けながら、全盛期への
道を歩むことができたのだった。

★ メンデルスゾーン・Midi音楽集

歌の翼に

 R.Schumann (1810〜1856)
(ロベルト・シューマン)

メンデルスゾーンと同じ頃のドイツには、ロマン主義の音楽の為に気を吐いたシューマ
ンも居た。 シューマンはザクセンに生まれ、早くから音楽的才能を示したにも関わら
ず、父親の希望に従って法律を学び、父親の死後ようやく20歳になって母親の理解によ
り音楽家になることを許された。 そして、始めはピアニストを志して、ピアノ教師と
して評判の高いヴィークに師事し、猛烈に練習した。 しかし、あまりにも早い上達を
望みすぎて、指を無理に動かす装置を考案したものの、かえって指を痛めてしまい、ピ
アニストになる事を断念しなければならなくなった。 その後にチェロ奏者になること
も考えたが、結局は作曲家として立つ事になった。

シューマンが音楽家として認められるようになってからは、メンデルスゾーンが開設し
たライプツィヒの音楽学校で教えたり、デュッセルドルフの指揮者になったりしたが、
遺伝的な精神病に悩まされ、いよいよ円熟の境地に入る年齢の1854年2月にライン河に
投身自殺を企て、救助されてからはボンの近くの精神病院に入り、そこで46歳の生涯を
閉じたのだった。

シューマンは、もともと文学的な方面にも強い情熱を持っていて、一時は文筆で立とう
と考えた事もあった。 すでに少年時代から、ジャン・パウルやE.T.A.・ホフマンなど
の文学作品に親しんで、ロマン的な幻想を身につけ、自分自身でもロマン的な文章を書
いたり、詩を作ったりした。 その音楽には、当然にロマン的な詩情が溢れているし、
文学と結びついているものも少なくない。 その音楽は、そうした意味でロマン的な香
気を放っている。 しかし、時には自分の幻想に溺れすぎて作曲技法や構成に弱点を見
せる事もあり、また1840年代半ばを過ぎた頃の作品では、精神状態の乱れを示すような
ものもある。 それに加えて、初期からピアノに興味を持ち、ピアニストを志望した人
らしく、シューマンの作曲の大部分は、ピアノ的な発想に支配され、ピアノ的な書法を
持っている。歌曲や室内楽曲などもピアノ様式の拘束から脱しきる事が出来なかった。
このシューマンの作品23までは、全くピアノ曲だけだった。 この事も、いかにもシュ
ーマンらしい。 こうした初期のピアノ曲の大部分は、シューマンの個性を極めて良く
示した作品であり、演奏される機会も多い。 それらの多くは、ピアニストを志した青
年の野心的な作品らしく、高い水準の演奏技巧を要求している。 但し、ただ技巧を誇
示するだけを目的としているのではなくて、技巧を詩的な幻想の表出の為の手段として
役立てているのである。 そしてシューマンのこうした幻想は、ソナタにも認められる
のであるが、そこではクラシックの形式にとらわれてしまって、自由奔放さを失いがち
になっている。 それよりも、自由な形式による小品を並べた作品では、シューマンは
他の作曲家には求められない魅力を発揮する事が出来た。 そしてこのような幻想的で
抒情的な小曲を連続する方法は、その後の作曲家にも影響を与えた。

シューマンは、ヴィークの娘クララと熱烈な恋に陥り、ヴィークからの強い反対や激し
い妨害に遭って数年間の苦闘の挙句、やっと1840年に結婚した。 この年はシューマン
の生涯にとって記念すべき年になったと同時に創作上でも大きな転換の年にもなった。
言換えると、シューマンはこれまでのピアノ曲ばかりの創作から歌曲の作曲に転じて、
多くのロマン的な抒情的な歌曲を書いたのである。 その為に、この年をシューマンの
「歌曲の年」を呼ぶ事も多い。 これらの歌曲は、シューベルトほど多種多様にわたる
わけではないが、文学的な要素を反映して選び抜いた詩を置いており、感覚的なデリケ
ートさを見せる。 その形式には変化有節形式と通作形式が目立って多く、また叙唱的
なものも少なくはない。 そのピアノパートは、一般にシューマンらしく入念で、単な
る伴奏以上に豊かな幻想と感情を表していて、時には歌声部よりも凝った物になってい
る事が多い。 しかしシューマンは、1841年以降には、創作の主体を器楽作品と合唱音
楽に向けるようになった。 器楽作曲家としてのシューマンは、結婚による安定した生
活を反映したためか、大きな形式の領域においても注目に値する作品を出した。 しか
し、それ以上に傑作とされているのは、イ短調のピアノ協奏曲作品54である。 やは
り管弦楽の処理に熟達さが乏しいものの、演奏効果の上がるようにピアノを動かしてい
て、全体的にもしっかりとしたまとまりを持っている。 この曲は、英雄的な誇りと威
厳、熱烈なパトスを持ち、ロマン派の時代の最も重要な協奏曲の一つとなった。

シューマンの音楽的な基盤は、主としてバッハ・ベートーヴェン・シューベルトにあっ
た。 そして成長してからは、それにメンデルスゾーンからの影響も加わった。 それ
だけに、シューマンの音楽は典型的にゲルマン的であった。 その対位法やリズムは、
バッハ研究の成果を見せ、室内楽曲はベートーヴェンの研究の結実でもあり、歌曲はシ
ューベルトからの影響なしには考えられない。 しかしその反面で、シューマンの音楽
には特定の音型や旋律型がしばしば見られ、また一定のリズムのパターンに固執する癖
もある。 それがシューマンの音楽の魅力を僅かに損なうということもできよう。

シューマンはまた、音楽評論の方面でも活躍し、新しい批評のあり方を実際に示しもし
た。 シューマンにとっては、尊敬するベートーヴェンとシューベルト以降の音楽の世
界は堕落しきったもので、陳腐な形式主義と浅薄な低級趣味に満ちた俗物の音楽にあふ
れている、と言うのである。 シューマンは、これを傍観する事が出来ず、24歳の時に
「新音楽時報」という雑誌を発刊し、自ら批評家として筆を取り、俗物の音楽を痛烈に
攻撃した。 それと同時に、新しく現れた偉大な音楽や優れた作曲家に対しては文学的
な惜しみない賛辞を与え、それを広く世間に紹介した。

★ シューマン・Midi音楽集

歌曲「詩人の恋」より
  子供の情景より
  知らない国々
  珍しいお話
  鬼ごっこ
   おねだり
    満足
   大事件
  トロイメラ
   炉ばたで
  木馬の騎士
  むきになって
   おどかし
  子供は眠る
  詩人のお話

 F.F.Chopin (1810〜1849)
(フレデリック・フランシス・ショパン)

ロマン主義音楽は、まずドイツで発生して、文化諸国に波及した。 フランスではパリ
を中心にしてロマン的な傾向の新しい音楽がいち早く受け入れられた。 しかしこのフ
ランスのロマン主義は、ドイツのものとかなり違っていた。 フランスでは、ロマン主
義音楽はラテン的な性格を帯びて発達して、強烈な熱情と微妙な繊細さを示すようにな
ったのである。 その初期の重要な作曲家がショパンである。

しかしショパンは純粋のフランス人ではなくて、半ばフランス人の血を受けたポーラン
ドの空気を呼吸して成長し、そこでピアニスト及び作曲家として認められてから20歳の
時に故郷を去り翌年パリに出てピアニスト・作曲者・教師として活躍するようになった。

ショパンはほとんどピアノ曲しか書かなかった。 その作品の量も決して多いものでは
ない。 それにも関わらず、ショパンのピアノ曲は音楽史上の貴重な宝となっている。
ショパンの音楽は同世代のシューマンのピアノ曲とはもちろん違う形式のものである。
ショパンのピアノ曲は、ロマン的ではあるが、スラヴ人の特性の一つである極端な興奮
性と、フランス風に洗練された表情と、ドイツ的な教育の成果である堅実な構成と、祖
国ポーランドに対する熱烈な愛国心とを混合させて、独自の様式にしている。 しかも
そのショパンの音楽には、針のように鋭い感受性がみなぎっている。 その旋律は絶妙
な美感を備え、装飾音を単なる無意味な飾りに終わらせずに、必要不可欠なものとして
活用し、時には休符さえも極めて効果的に利用し、重要な構成分子としている。 和声
も鋭い感覚を見せ、繊細であり、特に半音階による巧妙な色彩や不協和音の大胆な使用
などは全く独創的である。 すべてはピアノ的で、無尽蔵の音型とアラベスクを豊かに
用い、ペダルの使用によって遠い音を巧みに結合して、新しい効果を出す。 ショパン
ほどピアノ的なピアノ曲を書いた者はなかった。 その意味で、ショパンをピアノ書法
の革命児と呼んでも良い。 ショパンは、未曾有のピアノ様式を創造し、これによって
深い詩情を最も典雅に・最も力強く・最も美しく表出した。 しかしショパンが用いた形
式は、大部分ショパン自身が創案したものではなくて、既存のものである。 しかもシ
ョパンはこれに独自の内容を盛り込み、それを無比の音楽とした。 そして、そういう
形式を用いるに当たっては、自分の要求に従って構成を自在に変え、それを全くショパ
ンらしいものにする事もできた。 ショパンにとっては堅苦しいソナタでさえも、ロマ
ン的な生命を持って再生され、ピアノ協奏曲も、ロマン的な新しい息吹を持っている。
更にショパンは、すでに新鮮味の失せたワルツのリズムをとって、洗練された聴く為の
舞曲とし、ポーランド上流階級の4分の3拍子の壮大なポロネーズや、同じくポーランド
の農民的で郷土色豊かな4分の3拍子のマズルカを、愛国的情熱や祖国への憧憬や憂鬱な
孤独感などの表出のための手段とし、練習曲では、技巧と解釈のあらゆる問題を提示し
同じに豊かな詩情と熱情を盛り込んだ。 また、バッハの「平均律クラヴィーア」の前
奏曲にならって、しかもフーガから独立した即興的で詩的な前奏曲を作曲し、フィール
ドが発明した夜想曲に従って、深い詩情とデリケートさに満ちた曲を書き、ベートーヴ
ェンに範を求めた4曲のスケルツォでは、憂愁味と精力的な面とを示した。そしてまた
4曲の壮大なバラードでは、ポーランドの愛国的な詩人の詩から暗示を受けて、音によ
る男性的な叙事詩を展開した。 ショパンは、この他に即興曲や幻想曲、変奏曲や子守
歌などにも新しい生命を盛った。 こうしたショパンの音楽は、ロマン派のピアノの小
品の世界を一段と流行らせる事になったし、ピアノ書法の上でも大きな影響を残したの
である。

★ ショパン・Midi音楽集

  ノクターンop.9−2
    華麗なる大円舞曲
    プレリュードop.22より
     7番 イ長調
     8番 ヘ短調
     9番 ホ長調
     10番 ハ短調
     11番 ロ長調
 即興曲op.29−1 変イ長調
スケルツォ第2番 変ロ短調op.31
エチュード op.10−3「別れの曲」

★ 新ロマン主義の音楽

ロマン主義の音楽は、19世紀中ごろには、一方ではパガニーニの刺激によって巨匠的な
演奏技巧で新しい音の世界を求め他方では音楽を音楽外のものと結びつけようとした。
こうして新しい響きのピアノ曲や管弦楽曲を生み、すでに古めかしくなっていた交響曲
を根底から破壊して自由な交響詩を新たに作りだし、伝統的なオペラからも離れて、も
っと合理的な楽劇を誕生した。 こういうものを通して示し出されるのは、ますます強
化された主観なのだが、これは客観的な外界の描写を通して行われる。 作曲者は、自
分が感じた心の叫びをすぐ表出する代わりに自分が接した外界を通じて行うのである。
そこにはあらゆる種類の巧妙な描写が現れてくるのも当然である。このようにして、自
然及び超自然の詩の世界・劇的な葛藤・その他もろもろの音楽外の要素は、これまでに
なく音楽に融合させられた。

このようなロマン主義は、理想主義的で感情的な中期ロマン主義から出たものであるが
一層自由で官能的で写実的になった。 これは一般に新ロマン主義と呼ばれている。 
後期ロマン主義に属するものであり、ドイツでは「新ドイツ派」と呼ばれる事も多い。
この新ロマン主義の為に大胆な道を開拓したのは写実主義を代表するベルリオーズであ
るが、それをピアノ曲や交響詩で力強く推進したのはリストであり、またオペラの方面
で完成したのはヴァーグナーであった。 このように、発展経過が主としてドイツであ
った為に、新ドイツ派とも呼ばれるのである。

 F.Liszt (1811〜1886)
(フランツ・リスト)

リストはハンガリーの生まれで、早熟な天才ぶりを示し、7歳でピアノを習って9歳で
すでに公開演奏をし、11歳でウイーンに移ってチェルニーに学び、その翌年のウィーン
の演奏会ではベートーヴェンの出席を得て、ベートーヴェンから祝福と激励を受けた。
この年にパリに出て音楽院への入学を希望したが、当時の院長ケルビーニから外国人と
いう理由で入学を拒否されたので独学でピアノを研究し、また作曲家のパエールとライ
ヒャについて作曲を学んだ。 その頃にパガニーニからの刺激で、独自の新しいピアノ
奏法を考え出した。 ショパンの演奏も、リストには大きな示唆を与えた。

リストは、これまでのピアノの演奏が指先を最も重視していたのに対し、手と腕の関節
を活用した近代風のタッチを考案し、また新しい運指技巧を開発した。 「ピアノ巨匠
の父」とか「ピアノの鬼神」などの呼び名に相応しく、リストはピアノと言う楽器の性
能を大いに発展させ、それまで全く知られなかった美しい効果を引き出す事が出来たば
かりでなく、時には合唱のようにも管弦楽のようにもする事ができたし、未曾有の華々
しい効果を上げる事もできた。 ピアノは、ここに新しい再出発をしたのである。 そ
してリスト以後のピアニストで、彼の技巧の影響を受けないものはなかった。

このリストの作品は、3つの時代に分けて考えられる。 ピアノの巨匠としてのリスト
は、その創作第1期には、当然にピアノ曲を主体に書いていた。 それらに技巧的な巨
匠性が目立つのもごく自然な事だった。 リストが管弦楽曲に野心を燃やしたのは、空
前と言われた巨匠的な演奏で一世を風靡した後、1848年にヴァイマールの宮廷楽長に就
任してからの創作第2期に入ってからの事である。

リストの第1期のピアノ曲には、他人の作品の編曲やパラフレーズが多く含まれる。 
リストは、ピアノが最も理想的で普遍的な楽器だと考え、ピアノであらゆる楽器の代理
が出きると信じていたので、そうした曲種を多く書いたのである。 こうして、シュー
ベルトやシューマンの歌曲をピアノ独奏用に移したり、ベートーヴェンその他の交響曲
をピアノ用に書いたり、オペラの旋律に基づいてまとめ上げたピアノ曲を書いたり、幾
つかのオペラの旋律をつなげて華麗な効果を狙った幻想曲を作ったりした。 リストは
第1期から第2期にかけて組曲風の傑作も書いて、壮麗な効果の中にも感傷的で詩的で
標題音楽的な態度を見せた。 そしてそれらの作品においてカトリックに惹かれていた
リストの姿を早くも見せている。 またその中には、後の印象主義音楽と深い関連を持
つものもある。 リストはピアノの巨匠としてパリを中心に活躍していた1834年にダグ
ー伯爵夫人と恋愛に陥り連れ立って各地を旅行し、ピアノ界から隠退したかに見えた。
彼女とリストの間に生まれた3人の子供のうちの次女コジマは、後にヴァーグナーの妻
となった。 リストは5年後には夫人と別れて、再びピアノ演奏家としての生活に戻っ
たが、表面的で空虚な巨匠的な生活に物足りなさと疑問を感じていた所、1847年に知り
合ったポーランド系の公爵夫人から生活の転換を勧められ、それを機会に1848年にヴァ
イマールの宮廷楽長に就任し、夫人と共に同市に移った。 リストの第2期はこの時か
ら始まった。 リストは、ヴァイマールで指揮者としても優れた才能を持っていること
も立証した。 彼は過去の大家のものばかりでなく同世代のベルリオーズやヴァーグナ
ーの問題となった作品も積極的にとりあげた。 その指揮は楽曲の深い理解に根ざした
もので、後世に多大な影響を与えた。 更にリストは、ピアノの教師としても高い名声
を得ていたし、批評の筆をとり、新しい音楽に共感を示した。 この為、リストを敬慕
する若い音楽家たちはこぞってこの地に集まり、ヴァイマールは新ドイツ派の本拠のよ
うにもなった。 この時期の曲は、独創的な、しかも個性的な内容を盛っているものが
目だって多くなっている。これらの多くはリスト特有の感傷性と宗教性に彩られていて
これまでの曲よりも深みを増し加え、壮大な力も加わり、構成的にも新しい方法を見せ
る。 このように主題を変奏曲風に扱ったり、あるいは主題を何回も再現させたりして
全曲を統一する方法は、「変容」と呼ばれ、この時期のリストの作品に多く見られる。
そしてこの形式は後にフランクその他から「循環形式」として受継がれるようになる。
ヴァイマール時代のリストは、創作では新しい様式を確立し、影響力の強い作品を書い
た。 そして何よりこの時代のリストの作品で重要なものは管弦楽曲で、これこそは、
リストの第2期を代表するものである。 これらの標題音楽を主体とした作品は、ベル
リオーズ風な標題音楽の不合理性や欠点を是正し、標題に従って形式を単一楽章の中で
自由に扱い、標題を描写的に処理するよりむしろ、交響曲風でありながら標題を詩的に
扱う音楽となっている。 リストは1858年にヴァイマールの楽長を辞任し、3年後にロ
ーマに移った。 これと同時にその創作も第3期に入った。 この時期の作品ではミサ
その他の教会音楽と、オラトリオその他の宗教的な音楽が最も重要で、兼ねてから宗教
的だったリストの最後の到達点を示している。 これらは交響詩風な描写と、変奏曲風
な展開と、ヴァーグナー風な旋律や指導動機を用いていて、新しい境地を開拓した。

★ リスト・Midi音楽集

  ラ・カンパネラ
  愛の夢 第3番
 パガニーニエチュードより
第2番「オクターヴ」ホ長調
  第4番「狩」ホ長調

★ 反ヴァーグナー派 (ブラームス派・新クラシック派)

19世紀後半のドイツ音楽界は新ロマン主義に完全に征服されてしまったかに見えた。
それにも関わらず、そのような色に染まることなく、それとは別の自分の立脚点を見出
して、新ロマン主義とは違った方向を目指す少数の作曲家がいないわけではなかった。
その最も顕著な代表者はブラームスである。 そしてブラームス以後、この影響を受け
て、反ヴァーグナーの旗色を鮮明に打ち出すものも現れた。 もっともブラームスも青
年時代には新ロマン主義に一度は傾いたものの、すぐに自分の進むべき道を自覚し、ク
ラシックあるいは、それ以前の形式を使い、新ロマン主義のように強烈でも露骨でもな
い表現世界を追求したのであった。 こうした人たちは、新クラシック派と呼ばれる事
もある。 そして当然な事に、ブラームス派とヴァーグナー派は、しばしば厳しい対立
を見せもした。

 J.Brahms (1833〜1897)
(ヨハネス・ブラームス)

ブラームスは、北ドイツの商業都市ハンブルグに生まれた典型的な北ドイツ人である。
同時代の北ドイツの文学者ヘッベルやグロートのように、ブラームスの作品も沈静で、
重厚で、時には憂鬱であるが、常に内省的であることが多い。 このブラームスは劇場
でコントラバスを弾いていた父から教育を受けた後、当時の著名な教師のマルクスゼン
に師事し、バッハとベートーヴェンの作品を主体として、バロックとクラシックの音楽
の精神と技巧を学んだ。 その為にもともと内面的な北ドイツのロマン主義者で静かな
生活を好んだブラームスが、外面的な虚飾の効果よりも内的な深さと抑圧された形式を
選び、民謡的な物に傾き、過去を遠く遡るようになったのも全く当然なことだった。

20歳になったブラームスは、ハンガリー出身のヴァイオリン奏者レメーニーと演奏旅行
に出て、生涯を決定する事件を体験した。 ハノーヴァーで、当時の著名なヴァイオリ
ニストのヨアヒムと親交を結び、その紹介でヴァイマールにリストを訪れ、リストの賞
賛を受けたものの、自分自身はかえって新ロマン主義に反感を抱いて帰った。 ブラー
ムスは再びヨアヒムの紹介状を手にデュッセルドルフのシューマンを訪ね、シューマン
夫妻の真摯で温かい性格に共感し、シューマンからも才能を高く評価されたのである。
シューマンはすぐに「新音楽時報」に「新しい道」と題した一文を掲げ、ブラームスを
広く音楽界に紹介した。

その後のブラームスの外面的な生活には、ベルリオーズやリスト・ヴァーグナーの場合
のような激烈な変化は起こらなかった。 シューマンの死後には、その未亡人クララと
親交を結びながらも独身を守り、デトモルトでの合唱指揮者兼音楽教師としての数年の
後にまたハンブルグに戻り、1862年からはウィーンに定住した。 翌年から半年ほどジ
ングアカデミーの指揮者となり、1872年から75年は楽友協会の芸術監督となった他には
定職らしいものには就かず、作曲に専念した。 このウィーンの生活は、これまでは全
く北ドイツ的だった作品にウィーン的な明るく親しみやすい温かさを加える事になった
ものの、基調を一新するまでには至らなかった。

ブラームスは、シューマンに会う前後までは、特にピアノ曲で新ロマン主義的な様式を
見せ、主題の変容の手法を用いたり、指導動機風なものを使ったり、標題を置いたりし
た。 しかしその後は、新ロマン主義的なものから遠ざかり、独自の様式を樹立するよ
うになった。 そして、新ロマン主義者達が理想の形式と考えた音楽劇と交響詩には手
を染めなかったが、クラシックと中期ロマン派の作曲家達が好んだ形式のほとんどすべ
てを採用し、それに新しい生命を盛りこんだのである。

ブラームスが最も身近に感じていた楽器はピアノであった。 それだけにブラームスが
最初から最後まで重んじたのもピアノ用の作品だった。 しかしその数は決して多いわ
けではない。 これはブラームスが優れたピアノの演奏家だった事から考えると奇異の
ようでもあるが、もちろん創作力が弱かったからではなくて、作曲の発表までに慎重で
あり、厳格な自己批判があったためである。 こうした事はピアノ曲ばかりではなくて
他のあらゆる分野にも当てはまる。 だから総体的にいっても、ブラームスの作品の数
は、年齢に対して多くはない。 そのピアノ曲は極めて表現の幅が広く、従来のピアノ
的という概念をはるかに越えている。 これはブラームスが非凡な演奏家だった事を示
すと同時に、新しい効果を求めていた事を証明する。 そこには対位法的書法と切分音
と複リズムが多くあり、また男性的に和音塊を力強く奏する書法もある。 この作曲家
がいかに作曲技法に優れていて、いかに北国的な重厚さを好んでいたかが知られよう。
また、室内楽曲の方面でもブラームスは重要な作品を残し、ベートーヴェン以来の優れ
た室内楽作曲家となった。 それらの作品はロマン的で重厚であり、またブラームスの
得意な楽器のピアノを加えたものや、編成を厚くした物で、独自の面目を躍如とさせて
いる。 これらの室内楽曲では、ブラームスは徹底した抒情詩人だった。 ソナタ形式
の扱いには劇的な力がないではないが、それでもベートーヴェンの場合のように闘争や
劇的緊張を主体とするのではなく、強烈ではあっても野性的ではなく、常に抒情性を重
んじていて、北国的な渋味を持っていたり、諦観を盛り込んでいる事も少なくない。 
こうした抒情性は、その管弦楽曲にも見られる。 それらはブラームスらしい精巧な変
奏の技巧を使い、深い内容を持ち、19世紀後半の管弦楽用の変奏曲の最高傑作とされて
いる。 これらの作品を経て、ブラームスは4曲の交響曲と2曲の序曲に達した。 交響
曲は、ベートーヴェンのものと大差ない編成をとり、当時の新ロマン主義の色彩的で派
手なのとは違って、もっと地味で落ち着いたものになっている。 これらは内容的にも
構成的にも、ベートーヴェン以後の傑作の交響曲に数えられなければならない。 ブラ
ムスは、その協奏曲でもクラシックの伝統を尊重しながら、ロマン的な個性と抒情性を
そこに盛った。 またブラームスは本質的に抒情的だったので、歌曲でその感情を率直
に表明する事ができた。 その独唱歌曲は約300曲、二重唱曲は20曲ほどあり、4重唱曲
は60曲を数える。こうした歌曲でブラームスはドイツ歌曲の流れに大きな貢献をした。

★ ブラームス・Midi音楽集

ピアノ小曲集op.116より
第2番「ファンタジー」
ピアノ小曲集op.119より
第4番「ラプソディー」

★ 民族主義音楽

19世紀の音楽での民族主義は、ロマン主義運動と密接に結びついていた。 この19
世紀に入ってしばらく経つまで、音楽の国際的な舞台にほとんど登場しなかった国や民
族の音楽家達は、自民族・自国民の為に、それぞれの民族の音楽的語法を尊重し、聴衆
に直接に訴える音楽を書くようになってきたわけだが、その為にはドイツ・フランス・
イタリアなどの国際的・伝統的な音楽の影響から抜け出る必要があった。 初期のそう
した人たちの大部分は、やむを得ず音楽の勉強の為にこれらの音楽的先進国に留学した
り、先進国の音楽に模範を求めたりしているので、必ずしも完全に民族主義的な音楽を
書いていたとは言いきれない。 やがて年月が経ち、世代がかわってくると、完全に先
進国の影響を消化したり、あるいはそれから脱出したり、また先進国の音楽にないもの
を出したりして、国民楽派を不動のものとして樹立する事になる。 ロマン主義の一つ
の大きな特質として、クラシック音楽への反動であり、伝統的な音楽の在り方から抜け
出ようとする努力と言う事が挙げられるが、この点では国民楽派もロマン主義運動と密
接に関連していると言うことになる。

この国民楽派の音楽は、強く民族性を歌い上げる事にも特徴がある。 これは、他の民
族はらすれば無縁の事であるが、その民族からすれば民族的な感情の謳歌と言う事でも
あり、民族の主観の強調と言う事になる。 ロマン主義運動のもう一つの特質――客観
性の尊重と言うよりも、むしろ民族的な主観性の強調――は、国民楽派の姿勢と強く結
びついているわけでもある。

作曲家は、いまやベートーヴェンやモーツアルトのような普遍的な音楽の言葉でもって
広く人類に語りかけ、訴える事よりも主として自分達の民族に、自分たちの語法で、自
分達に共通する感情を伝える事に力を注いだのである。 このような事は、すでにベー
トーヴェンの晩年近くから、ドイツやオーストリアで行われていた。 例えばシューベ
ルトの歌曲がそういうものだし、ヴェーバーのオペラでは、ドイツの民族的な旋律語法
を無視する事が出来ないし、また民族感情も忘れる事ができない。 さらにこのヴェー
バーを始めとして愛国的な音楽を書いた作曲家は少なくない。 こうした方向が他の国
の音楽の在り方に強い影響を与えた事はいうまでもない。

このような民族感情の謳歌の為には、従来の堅苦しい形式感をある程度破るのもやむを
得ないし、時にはその民族独特の形を採用する事にもなる。 音楽でのロマン主義運動
の特質の一つとして、固定され規定された形式からの解放と言うことも挙げられるが、
この点でも民族主義は深い関係をもっている事になる。 それぞれの民族の音楽語法を
尊重するために、民謡や民族舞曲の要素を好んで用いる事になるが、形式においても、
そうした音楽のものを受け入れる事が多くなってきているのはもちろんのことである。
なかでもスラヴ地方の舞曲などではこうしたことが言える。

ロマン主義運動のもう一つの特徴として、音楽以外のもの(主として芸術)との密接な
結合と言う事が挙げられるが、これも民族主義の特徴としてそのまま数え入れる事がで
きる。 民族感情の強調となれば、歌詞のあるものが最も端的で直接的であるのは当然
だった。 そして、自分の国の言葉による声楽曲がそういうものだったし、民族固有の
伝説・歴史・自然・生活・文芸作品から標題音楽やオペラの題材を取る事もそのような
ものと見ることが出きる。 18世紀後半以来、作曲家達は、新しい語法や感覚を求め
て、積極的に他国の音楽語法を取り入れ、異国的な効果を出す事をしてきた。 ハイド
ンがスラヴやジプシーの民族音楽から刺激を受けたのは周知の通りだし、ベートーヴェ
ンも、ロシア民謡を使って見たり、その他の土地の音楽語法を取り入れたりしている。
ロマン派初期になると、一層それが目立ってきて、ヴェーバーは、スペインや東洋の旋
律に興味を見出し、シューベルトはスラヴやジプシーの音楽に惹かれた。 このような
異国趣味は、素材を提供した側にとっては、自分の国の民族音楽に対する自覚と認識と
なって現れたのである。

民族主義の音楽は、こうして発生し、以上のような特徴を備えていた。 しかしそれが
特に著しく、しかも早期に現れたのは、ドイツよりも東及び北の国々だった。

 E.Grieg (1843〜1907)
(エドワード・グリーグ)

19世紀後半には、スカンジナヴィア及びその周辺のいわゆる北欧諸国にも、音楽の民族
主義化の風潮が現れてきた。 その中で、最初の顕著な動きを見せたのがノルウェーだ
った。 ノルウェーは、北海の荒波ときびしい山地で特徴づけられる国であり、豊富な
独特の民族音楽を持っていた。 しかしグリーグが現れるまでは、そうしたものを国内
でも国外でも芸術化することにほとんど関心を持たれていなかった。

このグリーグは、ライプツィヒでドイツ的な教育を受け、ドイツ・ロマン派の洗礼を受
けたのだが、帰国してから友人の愛国的な音楽と交際するようになって、ノルウェーの
為の音楽の必要性を痛感し、それを実行に移したのだった。 グリーグは、構成力にお
いては、確かに弱点を見せ、展開的な技巧にも不足していたが、生来の叙情詩人で郷土
詩人であり、独創的な和声を用いて品の良い叙情性を流す事では傑出していた。 ペー
ル・ギュントの音楽からも知られるように、グリーグのものには、強烈な情熱とか劇的
な迫力、深刻な思想といったものは足りないが、ノルウェーの国民楽派の父と言われて
もいいだけの豊かな民族感情がある。 

★ グリーグ・Midi音楽集

  抒情小曲集より
(op.12−3)
(op.43−4)
(op.54−3)
(op.65−6)
(op.71−3)

 P.I.Tschaikovsky (1840〜1899)
(ピオトル・I・チャイコフスキー)

チャイコフスキーは、ウラル山脈の鉱山監督官を父として生まれた。 ぺテルブルグの
法律学校を出た後、4年間ほど役人生活をしたが、音楽への情熱を押さえる事が出来ず
アントン・ルービンシテインが創設した音楽教室に入り、改めて音楽理論を本格的に学
ぶ事になった。 4年後にそこを卒業して、ニコライ・ルービンシテインがモスクワに
設立した音楽院で教鞭をとることになり、モスクワに移った。 しかし1878年には辞め
て、創作に全精力を傾倒した。 チャイコフスキーは数多くの作品を残している。 交
響曲・管弦楽曲・幻想曲・組曲などを中心に、ピアノなどをソロ楽器とした器楽曲を書
いた。 それらは豊かな音楽力と巧妙無比の楽器用法と、チャイコフスキー特有な感情
的な抒情性の為に愛好されている。 またこうしたチャイコフスキーの音楽の特徴は、
劇音楽にも表れている。 そして彼はバレエ音楽の分野においては成功を見せた。  
「白鳥の湖」・「眠れる森の美女」・「くるみ割り人形」などがそうであり、これらは
チャイコフスキーの3大バレエと呼ばれている。

★ チャイコフスキー・Midi音楽集

アンダンテカンタービ
 バイオリン協奏曲

  (バロック)   (古典派)  (フランス印象派)  (ロシア音楽)

   


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