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バロック音楽


       ★ バロック音楽について
☆ バッハ ☆ バッハ・Midi音楽集
☆ スカルラッティ ☆ スカルラッティ・Midi音楽集
☆ ヴィヴァルディ ☆ ヴィヴァルディ・Midi音楽集

★バロック音楽について 

バロックという言葉は、ポルトガル語の歪んだ真珠を意味するバロッコ(Barocco)という
語に由来するとされている。最初は、芸術の様式用語としてではなくて、ルネサンス芸術と
の比較の上から軽視した形容として使われたのだったが、やがて16世紀末からの音楽の研
究が進むにつれて、様式用語として用いられるようになったのである。但し、音楽でこの言
葉が使われるようになったのはそれほど以前の事ではなくて、今世紀に入ってからである。

音楽史でバロック時代と言っているのは、1600年の劇音楽の誕生から、バッハの没年である
1750年までの150年ほどの期間である。 バロックと言う言葉自体は「歪んだ真珠」「奇妙な
真珠」と言う意味であるが、これはそれ以前のルネサンス音楽との比較の上に使用されたも
のであって、バロック音楽自体は決して歪んだものではない。本来は一般的な芸術史用語と
して使用されていたのだが、20世紀に入ってから、ザックスによって音楽史にも応用される
ようになった。

バロック音楽という総称の元に表される150年ほどの時代を通して、 音楽史的に重要な現象
をいくつかとりあげる事が出来るが、それらをより大きな項目の物にまとめるとすれば、1
つは劇音楽の誕生とその発展という流れであり、他の1つは本格的な器楽が興隆した事であ
る。オペラといい、オペラ・ブッファもしくはオペラ・コミックと言ってもそれは要するに
劇音楽の分派に過ぎないし、イタリアのヴァイオリンを中心とする音楽から、合奏協奏曲の
ような合奏形態。ドイツにおけるオルガン音楽、フランスのクラヴサン音楽といっても、総
括的には器楽概念としてまとめる事が出来、これら2つの大きな流れのうちに芽生え、形成
されていったホモフォニックな技法は、次第に近代的調性を築き上げ、その初期の直接的な
役割を通奏低音が受け持っていくのである。

音楽形式の上からは主題の設定と楽章の集合体としての組形式の成立を見る事が出来る。 
音楽作品の創作に際して、一定の動機もしくは主題を置き、これに基づいて楽曲を構成する
という意図は、すでにフランドル楽派の声楽ポリフォニーにおいて見られる事もできたが、
バロック時代にはそれが更に明確となる。初期の未成熟さから徐々に抜け出し、後期バロッ
クでは各種の組曲に見られるような一定の主題に基づいて創作された各楽章が全体としてい
くつか組み合わされるようになり、これはハイドンにおいて主題の性格化が行われ、古典派
の音楽の重要課題となっていく。それと同時に、この主題設定と楽章の集合体という形式上
の成長は、当然形式の重視と言う事に結びつき、そこに表現されるものは人間の情熱や個人
的な感情よりも、客観化された美への感動という形での内容が主となってくる。しかし、古
典派における均衡のとれた美的観念にはまだ遠く、そういう意味から言えば、バロックは古
典派への準備的ナ段階であったと言えなくもない。つまりポリフォニーからホモフォニーへ
の過渡期であるという見方である。


    J.S.Bach (1685〜1750)
(ヨハン・セバスチャン・バッハ)

彼(バッハ)は、バロック時代の音楽を頂点まで高めた人と言える。バッハは、過去の
伝統を充分に尊重しながらも、当時の最も新しい様式を充分に吸収同化し、そこに自在
な創意もおき、対位法的でもあり、又新しい和声様式にも従っている独特のドイツ的な
音楽を作った。その作品の数は極めて多くその内容は驚くほどに豊かである。

このバッハは、ドイツ中心部のテューリンゲンの音楽的な家庭の出身である。その家系
は音楽史上でも珍しいほどの代々音楽家を出していた家系であった。バッハは10歳まで
に両親と死別してしまったので、父親から多くを学ぶ事ができなかった。その為、生地
アイゼナッハからオールドルフに移って、そこにいた兄のヨハン・クリストフ・バッハ
に引き取られ、クラヴィーアを学んだ。バッハは15歳から2年間、リューネブルグで学
生生活を送りながら、音楽の研究を続けた。特に北ドイツ・オルガン学派のベーム・ラ
インケン・リューベックらの音楽から多くを吸収し、またフランス音楽にも触れて啓発
された。1703年にヴァイマールに勤務したが、すぐにアルンシュタットのオルガン奏者
となり、1707年にはミュールハウゼンの教会のオルガン奏者に就任した。しかし、その
翌年にはヴァイマールの宮廷楽団に移り、やがて宮廷礼拝堂オルガン奏者を兼ね、それ
から合奏長に就任した。1717年〜1723年までは、ケーテンの宮廷楽団の楽長を勤めてい
るがここでバッハは色々な葛藤があり、たまたま空席になっていたライプツィヒのトマ
ス教会カントールの地位に移ったのである。

バッハが眼病で死ぬまでの27年間は、このライプツィヒにて過ごした。ライプツィヒ時
代には宗教曲が多く書かれている。

★ バッハ・Midi音楽集

ブランデンブルグ協奏曲第3番
  G線上のアリア
 インヴェンションイ短調
 トッカータとフーガト短調
 平均律第1巻第1番ハ長調
 平均律第1巻第2番ハ短調
 平均律第1巻第5番ニ長調
  主よ人の望みの喜びよ

 D.Scarlatti (1685〜1757)
(ドメニコ・スカルラッティ)

1708年のある日、ところはローマの枢機卿オットボーニ邸、23歳になる2人の優秀な青
年音楽家がオルガンとチェンバロの即興演奏をし、1人はオルガンに、1人はチェンバ
ロに極めて高い賞賛を受け、彼らの友情は更に固く深くなっていった。 チェンバロで
勝者となったのがスカルラッティである。 その相手はあのヘンデルであった。 後期
バロックは1685年に生まれた偉大なバッハを中心に語られる事が多いが、同年にはヘン
デルと、このスカルラッティも生まれているのである。 3人の中心的音楽ジャンルが
重なり合わない事で、後期バロックを語るには彼等の3人の誰一人として避けて通るわ
けにはいかない。 1985年に生誕300年を迎える彼等であるが、忘れ去られているわ
けではないのに正当な評価が与えられていないのが、D.スカルラッティである。 近
年では少しづつではあるが、コンサートやCDでその作品を取り上げるピアニストが増
えてきているが、まだ決して一般的に定着しているわけではない。 珠玉の、といった
形容が正に最適なスカルラッティの作品は、バッハの平均律とは全く性格を異にするが
故に、その時代の最も貴重な音楽財産となっている。 

偉大なナポリ派のオペラ大家アレッサンドロ・スカルラッティを父とする音楽一家の十
人の子供の第6子に当たるドメニコは、非常に多くの作品を残しているが、とりわけ、
555曲にものぼるチェンバロ用のソナタの作曲家として名を不滅のものにしている。
555曲にものぼる彼のソナタにはフーガがあったり、トッカータやパストラ−レやガ
ヴォットといったように種種のタイプの作品が含まれているのであるが、多くはアレグ
ロとかアレグリッシモといった発想兼速度表示のみの曲となっている。 単一楽章ソナ
タとしての彼の作品の多くは前半・後半あわせて50〜160小節ほどの規模しかないが、今
日では多くの研究者が、本来は同一調性による急緩の2曲1組として作曲され、そのよ
うに演奏されていたのではないかと推定している。 作品の音楽特性はイタリア的旋律
美、和声の豊かさ、転調の多彩さ、スペイン的リズム、さらには当時のイタリア・オペ
ラに見られた陽気性、快活性、諷刺性を採り入れたユーモアに富む内容を持つ。 それ
以上に作曲上、構成上から見られる魅力はバロックやロココを飛び越えてはるか後の時
代の鍵盤音楽書法を持っていることである。 これらの作品は、自らがチェンバロの名
手であったスカルラッティならではの作品となっている。

★ スカルラッティ・Midi音楽集

ソナタ第380番

 


 A.Vivaldi (1678〜1741)
(アントニオ・ヴィヴァルディ)

ヴィヴァルディは、この時代に合奏協奏曲や独奏協奏曲を450曲ほど作曲し、その分野
の形式を確立した作曲家と言える。

彼はヴァイオリン奏者で教育者でもあり、約40年にわたったヴェネツィアのピエタとい
う女子孤児院の音楽教師もしていた。その女子たちの演奏能力はかなり高度なものであ
って、ヴィヴァルディの協奏曲のほとんどすべてはこの合奏用に書かれたものである。

ヴィヴァルディはこのように協奏曲の形式を確立したばかりでなく、多くの点でも創意
を見せた。例えば、独奏楽器として管楽器を始め、種々の楽器を登場させたし、有名な
「四季」のように協奏曲で始めて標題を導入したし、また描写的な書法を用いたりもし
た。なお、彼は協奏曲のほかにも、宗教音楽でも注目すべき作品を残した。

★ ヴィヴァルディ・Midi音楽集

「四季」より「春」
(1楽章)
(2楽章)
(3楽章)

 (古典派)  (ロマン派) (フランス印象派) (ロシア音楽)


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